石田裕人の題名のない人生

感じたことを、ただつらづらと

チャンドラボースの故郷その2〜インド15日目〜

 

どうも、石田です!

 

 

その1の続きです!

 

 

どうして日本軍は食料補給が困難になるかもしれないインパール作戦を断行したのでしょうか?

 

 

それは当時日中戦争をしていた日本にとっては「援蒋ルート」という補給路を断つことでした。

 

 

日中戦争が泥沼化していた日本は、逃げ回る中国政府に手立てがありませんでした。

 

 

そして、インドからビルマを通り、そして中国への補給路「援蒋ルート」を断つ作戦を決行したのです。

 

 

また、もう一つの意味で大東亜共栄圏を掲げる日本にとって、アジアを白人社会から解放するという目的達成の意義も込められていました。

 

 

そうした背景からインド国民軍の編成に伴って、ボースは日本でこのような演説をしています。

 

「約40年前に私がようやく小学校に通い始めた頃に、アジア民族である日本が世界の巨大な白人帝国ロシアと戦い大敗させた。

このニュースがインド全土に伝わると興奮の波が全土を覆った。インドのいたるところで旅順攻撃や奉天開戦や日本海海戦の勇壮な話によって湧き立った。インドの子供達は東郷元帥や乃木大将を慕った。

この度、日本はインドの仇敵であるイギリスに宣戦した。日本は我々インド人に対して独立のための千載一遇の機会を与えてくれた。我々はそれを自覚し心から感謝している。一度この機会を逃せば今後100年以上に渡って訪れることはないだろう。勝利は我々のものであり、インドが念願の独立を果たすことを確信している。」

 

 

そうして、チャンドラボース率いるインド国民軍にとっては「対英独立戦争」という位置付けとなるインパール作戦を日本軍は決行していくことになるのです。

 

 

結果は、無残にも多くの餓死による犠牲者を出してしまった日本軍でありましたが、後のインドの人たちはこのように日本について証言をしていくれています。

 

 

「インドは程なく独立する。その独立の契機を与えたのは共に戦ってくれた日本である。インドの独立は日本のお陰で30年早まった。インド国民はこれを深く肝に銘じている」(デサイ弁護団レッド・フォート裁判)

 

「インドは敢えてサンフランシスコ講和条約に参加しなかった。そして日本に対する賠償の権利を放棄した。これはインドが金銭要求より独立のために戦ってくれた“友情”に重きを置くからにほかならない」(ネルー首相)

 

「欧米諸国は、日本が侵略戦争を行ったということを歴史にとどめることによって、自分らのアジア侵略の正当性を誇示すると同時に、日本の17年間の一切を、罪悪と烙印することが目的であったに違いない。
私は1928年から1945年までの17年間の歴史を2年7カ月かけて調べた。
この中には、おそらく日本人の知らなかった問題もある。
それを、私は判決文のなかに綴った。
その私の歴史を読めば、欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人であることがわかるはずだ。
それなのに、あなたがたは自分等の子弟に「日本は犯罪を犯した」「日本は侵略の暴挙をした」と教えている。
満州事変から大東亜戦争にいたる真実の歴史を、どうか私の判決文を通して十分研究していただきたい。
日本の子弟がゆがめられた罪悪感を背負って卑屈、荒廃に流されて行くのを私は平然として見過ごすわけにはゆかない。
彼らの宣伝を払拭せよ。
誤った歴史は、書き換えなければならない。」(パール判事 インド極東国際軍事裁判

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僕は決して、戦争を美化し、それをやることが良いとは思っていません。

しかし、当時の世界情勢を鑑みて、日本がどうしてあのような行動をとってしまったのか。

そして世界がどのような視点からあの戦争に対して日本を評価しているか。

 

 

少なからず、インドという国は先の大戦に対してこのような視点を持っている。

それを知っているだけでも、今後の日本が世界に対して誰をパートナーに選び、協力して平和を目指していくか。

 

 

その考えるヒントになるかもしれませんね。